本殿(国宝)と透塀(重要文化財)および後門(重要文化財、画面左方)

北野天満宮

所在地 京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
位置  
主祭神 菅原道真公
社格等 二十二社(下八社)
旧官幣中社
別表神社
創建 天暦元年(947年)
本殿の様式 権現造
札所等 菅公聖蹟二十五拝
洛陽天満宮二十五社順拝
例祭 8月4日

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。

通称として天神さん北野さんとも呼ばれる。天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。

祭神

「 菅原道真 」参照

祭神は以下の3柱。

主祭神
  • 菅原道真公
相殿神

歴史

一の鳥居

延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。

永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。

中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。

天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。

江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。

1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。

境内

慶長12年(1607年)に建立。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする、権現造社殿である。当神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。屋根はすべて檜皮葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としており、国宝に指定されている。

拝殿(国宝)

楽の間(国宝)

西回廊(重要文化財)

楼門

神楽殿

宝物殿

中門(三光門)(重要文化財)

東門(重要文化財)

主な祭事

文化財

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち。

『北野天神縁起』(承久本)巻四より。大宰府の配所にて、かつて帝から賜った衣を取り出し涙ぐむ道真。

国宝

天神縁起を題材とした鎌倉時代の絵巻。詞書序文によれば鎌倉時代の承久年間の製作で、「根本縁起」または「承久本」と通称される。寸法は各巻それぞれ縦52.1センチメートル、全長は8.419メートルから12.116メートル。
天神縁起絵巻は菅原道真の栄華と左遷、道真の怨霊による都における変異と北野天神の利生記で構成され、天神信仰の成立に伴い数多く製作された。鎌倉初期の建久・建保年間には詞書のみの天神縁起が成立していたと考えられており、絵巻形式のものとしては承久本が最古とされている。天神縁起は詞書の文言から三種に分類され(梅津次郎による)、承久本は詞書のみによる縁起の最古本である建久本と同じく甲類に属すると考えられている。
作者は『倭錦』では似絵の完成者として知られる藤原信実としているが、製作年代とともに確証はない。各巻末には曼殊院良恕法親王による慶長4年(1599年)の奥書が見られ、それによれば承久本はそれまで所在が不明であったが北野天神目代の照世が泉南の念仏寺(堺市)において発見し、文禄5年(1596年)に堺代官石田正澄を介して奉納されたという。
天神絵巻は諸本により図像が大きく異なることで知られているが、承久本では巻一から巻五までには道真の生涯と藤原時平との対立、大宰府への左遷と憤死を描き、巻六では都における天変地異、巻七から巻八では日蔵六道巡りの説話が六道絵風に描かれ、絵巻はここで終わっている。本来はこの後に天満宮の縁起が描かれるが白描下絵のみが残されており、何らかの事情によって中断されたものと推定されている。
承久本は、通常は横置きにする料紙を縦置きにして繋いで、縦50センチを越える広大な画面を作り出している。このような幅広の絵巻の類例としては光明寺蔵『当麻曼荼羅縁起』がある。延長8年(930年)6月16日の清涼殿における落雷の様子を描いた巻六の場面では、中央に黒雲と雷神を配し、その左右に清涼殿の内部や庭において倒れ逃げ惑う公家の様子を描いた特徴的な構図が指摘される。

重要文化財(国指定)

典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

その他

梅と牛

神紋の『星梅鉢紋』

白梅と石の臥牛像

北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。

東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな — 菅原道真、拾遺和歌集

道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられている。

このような菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊神饌が献供されている。これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされている。なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されている。 この神饌では白梅と紅梅を男と女に見立て、土器の上に仙花紙を筒状に丸めて乗せ、玄米を流し入れた土台にそれぞれの梅の枝が挿し込まれ奉げられる。白梅を挿したものが42個作られこれを「男の御供」、紅梅を挿したものを33個作り、「女の御供」と呼んでいる。また、菅原道真が大宰府へ流された際に帯同した従者が薨去以後遺品を京都へ持ち帰り、鎮魂のために毎年収穫された米を奉げていたという伝承に基づき、大判御供、小判御供という形で現代においても神事が受け継がれており、その従者達の末裔である七保会の面々によって御調が行われている。

くわえて、この梅花祭は全国でも珍しく、貞明皇后参拝の古例に従って、天皇からでなく皇后から幣帛料が上げられている。

牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。

敷地内の様子

中門(三光門)周辺に

咲く白梅

拝殿前の紅梅

摂社の地主神社に咲く

紅梅と白梅

梅苑

もみじ苑

(中央は天神川)

本殿門手前にある

大黒天の灯篭

現地情報

所在地
交通アクセス
かつての交通
1912年には、京都駅との間に京都電気鉄道北野線(後の京都市電堀川線、通称「北野線」)が走るようになった。また、1958年までは神社の前まで京福電気鉄道北野線が乗り入れていたが、京都市電今出川線建設のため、北野 - 白梅町間の路線を市電に譲る形で営業路線を短縮し、白梅町(この時、駅名を北野白梅町と改名)止まりとなった。

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